第29回 先人の言葉に学ぶ

偉い思想家の残した言葉はずっしりと重みを持って迫ってくるが、生活の中から生まれた素朴な言葉にも、なるほど、うまいことを言ったもんだとうならせるもの多々がある。

何事も「いい加減」が大事だ。
こう言うとなんだかお𠮟りを受けそうだが、「いい加減」というのはもともとちょうど良い程度という意味の「良い加減」からきている。
「いい(良い)」と「加減」で、いい感じ、いい調子、いい具合だというプラスの意味になる。「さじ加減」なんていう言葉もあるように、加えたり減らしたりして程良いバランスを探る感じだ。

ところが、「いい加減」と一続きに言うと、ちゃらんぽらんで無責任というようなマイナスの意味になる。現代ではこちらで使われるのが一般的だ。
マイナスとプラスと両方の意味を持つのだから面白い。

例えば、あまりに真面目に考え過ぎるとどんどん自分を追い込んでいくし、周りも窮屈にしてしまう。「いい加減」が大事なのだ。

「調子はどうですか?」と聞かれて、「いい加減です」と答える人はあまりいないとは思うが、プラスに取れば、「まずまずといったところです」とか、「ぼちぼちですわ」とか、そんなニュアンスだろうか。

そういえば、「ぼちぼち」という言葉も面白い。
「もうかりまっか?」
「まあ、ぼちぼちでんなあ」
そんな大阪商人の典型的な会話が頭に浮かぶ。
これは本気で聞いているわけではなく、「こんにちは」のような挨拶言葉だ。
返すほうの「ぼちぼちでんな」はセットになっているのだ。

だが、そこにはさまざまな含みがある。
「おかげさまでなんとかやらせてもらっています」
「うまくいっていないから聞かないで」
「自慢じゃないが絶好調」
そんな諸々をあからさまには表現しないのが関西の商売人気質なのだ。

「ぼちぼち」は標準語では「ぼつぼつ」となる。
特別良いわけでもないが、非常に悪いわけでもない、ほどほど、普通、中間の状態という感じを表す。
徐々に、緩やかに、次第にと、物事の変化が性急ではないさまを指す言葉でもある。

「ぼちぼちやってますわ」と聞くと、切れ味は悪いが角が立たず、お互いが息をふーっと吐くように和む。
「ぼちぼちいこか」と言われれば、慌てずにゆっくりいこうと言われたようで、なんだか気持ちが楽になる。
関西人はこうして微妙なニュアンスで使い分け、感じ取り合っているのだ。

料理の味加減や物事の様子や健康状態を表す「塩梅(あんばい)」という言葉がある。
語源は字のとおり「梅」と「塩」。
といっても梅干しではなくて、「塩」と「梅酢」だ。
梅酢というのは梅干しを作る時に染み出してできる液体のことで、「塩梅(えんばい)」と言った。
昔はこの梅酢と塩が調味料だったので、塩と梅酢の味加減が良い時に「塩梅がいい」と言ったのだ。

物事の様子を「どんな塩梅だ?」と尋ねる。
「いい塩梅にいってますよ」と答えが返ってくる。
これでちゃんと会話が通じ合っているのだ。
曖昧過ぎて分からないと言われればそれまでだが、「良い塩梅」を見つける、見極める、この機微の中にこそ大事なことがある気がしてならない。

データだけでは見えてこない、人間だけが感知する「何か」があるからこそ、絶妙なバランスが保たれ、揺れや遊びの部分が物事をうまい具合に調整してくれるのではないか。

先人の残した言葉が教えてくれること。
ほどほどに、欲張らずに、足るを知る、そうすれば世の中は随分変わるだろうに。
それは不便を我慢しろということではない。
知恵と工夫で、声なき声を聞きながら程良い加減を見つけ、調和を取り、共生する。
人がそれを感知する力を失うことはとても怖いことではないだろうか?