第66回 「おいしいもの」にはワケがある

「天高く馬肥ゆる秋」――馬も肥えるらしいが、新米に始まり、さつま芋、栗、カボチャ、キノコ類にブドウや柿やリンゴといった果物類と、数え上げただけで肥えそうだ。
使い古された言葉だが、「食欲の秋」とはよく言ったものである。

私事で恐縮だが、先日この秋初めて里芋の煮物を食べた。
これが実においしいのである。
今年もそんな季節になったのだなと思いながら、ねっとりと滋味深い旬を味わう。
つくづくおいしいと思う。
それが有機栽培の里芋だからなのか、ちょっぴり値段が高かったからなのか、正直なところ分からない。

有機イコールおいしいとは限らない。
だが、有機だからおいしいというのは、当たってもいる。
有機野菜は、太陽のエネルギーや自然界に備わっている力と野菜そのものの力が融合して育つのだから、野菜本来の元気な味がするはずだ。

野菜には一年のうちに栄養価のピークがあり、それがちょうど旬に当たるという。
最も栄養価が高まる時期に収穫される旬の野菜は、一年中手に入るものと比べて栄養価が高いことが複数の研究やデータによって証明されているのだ。
そう聞くとなおさらおいしく思えてくるではないか。

人間にも、気力・体力共に充実した人生における旬の時期というものがある。
はたから見てもエネルギーに満ちていて魅力的に映るし、何をやってもその経験が糧となり、ぐんと成長していける時期だ。
野菜だって、それぞれの持つ栄養素のパワーがみなぎっている時期のものがおいしいのは納得できる。無理やり与えられた環境で実力を発揮せよといわれても、本来備わっているメカニズムと違うのだから本領発揮とはいかないだろう。

そして、値段が高いということは、それだけの付加価値がそこあるということだから、おいしいに違いない。むしろ、おいしくあってくれなければ困る。

つまり、有機だからおいしい、と思えばおいしいのだ。
旬だからおいしい、と思えばおいしいのだ。
値段が高いからおいしいはず、と思えばおいしいのだ。

だが、どうもそれだけではないようである。
「おいしい」と思って食べる環境にあるかどうか、自分の気持ちの置きどころが「おいしい」と思えるところにあるかどうか、決め手は案外そんなものかもしれない。

人は皆、置かれている状況はさまざまだ。
自分のことで精いっぱいで、例えばこの里芋がどんな場所でどうやって作られ、どんな人たちの手を経てここにやってきたかなんて気にする余裕のないときもある。
いや、普段はほとんど意識していないかもしれない。

それでも、人は生きている以上、食べるという行為を繰り返している。
体をつくっているのは食べものだ。
人は何をもっておいしいと思うのか。
どんな時においしいと思うのか。
それがどんなものなのか気にすることは、実はとても深い哲学の道へ続いている。(ような気がする)

今食べたものが「おいしい」のにはワケがある。
体が喜ぶものを食べたい。
できれば楽しく、できれば幸せな顔で。
そのために大事なことは?と考えながら、まあるい里芋をもう一つ。

食欲の秋は思索の秋への入り口であるらしい。発見である。