第48回 調理は楽し、五感を研ぎ澄ませ!

すぐ前を制服姿の2人の女子高校生が歩いている。
「ねえねえ、私ね、あれができたよ、ほら、あれ、あれ」、そんな声が聞こえてきた。
1人が隣を歩く友達に一生懸命説明しているようだ。
「ほらあれ、リンゴ! 私、リンゴの皮が剥けたよ。今、花嫁修業中でさ」

別に聞き耳を立てていたわけではない。
すぐ後ろを歩いていたのでおのずと耳に入ってきたのだが、「花嫁修業中」というフレーズが意外過ぎた。
とっくに死語だろうと思っていた言葉が、現代の女子高生の口から、はじけるような無邪気な笑いとともに飛び出したことに驚いたのだ。

彼女が言った「ほら、あれ、あれ」が、全部つながったクルクルのリンゴの皮のことを指すのか、ウサギの耳型なのか、半月型のことなのかは分からない。
ただ、皮を剥く練習をしているらしいことだけは分かった。

リンゴの皮を剥くことにこれからを生きる若者が興味を持っている、それだけでなんだか少し頬が緩んだ。

農学者であり、総合地球環境学研究所名誉教授である佐藤洋一郎氏は、「料理は人類が発明した『3術』――知術・芸術・身体技術――を動員して行う所作である」と言う。
そして、現代の先進国社会では人々は食べるための作業(生産・調理)に自ら頭脳、時間、筋力を使わなくなったと。
極端な食の外部化は人々の手から調理の機会を奪い、その習得の機会を放棄させるというのである。

魚を下ろせない、調理できない。その結果食卓に魚が登場しづらくなり、「魚離れ」などと言われるようになった。
切り身の魚や加工済みの魚しか目にすることがなくなり、その魚の元の姿を知らない子どもたちもいる。

確かに、骨取り加工済みの魚なら子どもにも安心して食べさせられる。
だが、箸を使って骨を外したり小骨をよけたりという訓練の機会は失われる。
咀嚼しながら、脳の指令が行ったり来たりし、舌を動員して器用により分けて口の外へと出す、本来ならそんな高度なことが自然にできるようになるはずなのに。

賞味期限・賞味期限という概念は、自分で臭いをかいで「おかしいぞ」と感じる危機管理能力を失わせた。
賞味期限がまだきていなくても、何かの理由で傷んだり腐ったりしていることだってある。
逆に、賞味期限・消費期限が切れていても、全く何の問題なく食べられるものだってある。

自分の身を守るための安全装置はまず自分の五感だ。
臭いをかいでみたり、色を確かめてみたり、ちょっぴりなめてみたり。
その前提には、どのような状態であればアウトだという経験や知識があった。

これを提供する側、つまり外部任せにし、賞味期限など規制に頼ってしまうと、自分自身は何も考えなくなり、身を守ることもできなくなってしまう。

捨てるべきか、食べるべきか、それが問題だ。
その答えを出してくれるのは賞味期限・消費期限となっている現代社会では、悩む必要がなく、判断のための時間も労力もかけずに済む。
代わりに、「食」から広がるはずの経験知や想像力も失ってしまった。

何かを得るには本来手間暇がかかるのだ。
その後にしか納得するような「実感」はない。
「実感」は手間暇かけた自分への小さなご褒美だ。

リンゴの皮が剥けるようになった君よ、願わくば、そのリンゴがそこにやってくるまでの過程にも思いを馳せてみてほしい。
次は魚にも触ってみてくれないか。
そして、どんな海を泳いでいたのか、想像してみてほしい。
その海のことも考えてみてほしい。

コロナ禍で家で料理をする機会が増え、料理好きになった人が少なくないらしい。
楽しく調理して、おいしく食べて、幸せを実感し、そしてその先に思いを馳せてほしい。
もちろん、次世代に願うばかりではいけないと、自戒を込めて。