第44回 想像力という力を使って

みんなつながっているというのなら、
今起きていることはすぐ隣の出来事なのに。

世界と瞬時につながれてボーダレスとなった今、不当な目に遭っている誰かも、享受する自分も、同軸にいてつながっている存在である。
空はつながっていて、踏んでいるのは同じ地球の地面で、刻む時間は同じである。

ある国では過酷な労働を強いられた上に、正当な対価も支払われていない。
子どもを学校に通わせることすらできない。
それどころか、子どもが働かなければ生きていけない。

ある国では、毎日食べものが大量に捨てられ、フードロスが深刻な社会問題になっている。
賞味期限切れという大義名分の下に廃棄され、そして、明日のためにまた必要以上の量がせっせと作られる。

捨てられるのは、食べ物ばかりではない。まだ使える物たちもだ。

直して再生させ、本当に寿命を迎えるまで大切に使う、かつて、物がない時代はそんなのは当たり前だった。
現代は、直してまで大切に使う人と、タイパ・コスパを考えて安くて新しいものに買い替える人、それは「価値観」の違いだという。
「価値観」というのは随分と便利に使われる言葉になったものだ。

一杯のコーヒーに癒されて、また頑張ろうと思う。
だが、海の向こうでコーヒーを栽培している農家は、コーヒー栽培専業で暮らしが成り立ってはいない。
例えばオーガニックのコーヒー栽培が付加価値を上げると分かっていても、販路がきちんと確立していない限り、切り替えられる農家ばかりではないのが現実だ。
それどころか、生活のために大麻栽培に切り替えてしまう農家もある。

カカオの生産地で暮らす子どもたちは、チョコレートが甘いことを知らない。
食べたことがないからだ。
親たちは現金収入を得るために必死で自然災害と戦っている。

こうしたことは、すぐに情報として知ることができる。
できるはずだ。
知っているはずだ。
今捨てようとしているそれが、どんなに望んでも頑張っても手にすることができない人がいる。
そんなことを意識せずに暮らせているとしたら、私たちはどれだけ想像力を失ってしまったのだろう。

海の向こう、地球の裏側、世界中に暮らすたくさんの人々。
その一人一人に生活があり、喜怒哀楽があり、人生がある。
彼らが笑う時はどんな時だろう。
どんなことに幸せを感じているのだろう。
どんなことに苦しいと弱音を吐くのだろう。
どんなことに怒り、悲しみ、涙を流すのだろう。
距離と時間を越えて「つながり」、「共有」し、「寄り添える」時代のはずである。
そんなツールを手にしたはずではないか。

だが、つながる一番の方法は想像力ではないのだろうか。

そんな中で、少しずつ循環が変わってきている。
収入が安定するようにと、契約農家制に取り組む企業が出てきた。
生産者の生活向上に寄与する責任を考え、技術指導や応援をする企業が出てきた。
高品質のものはそれに見合った高い価格で買い取る。
こうしてフェアな対価が支払われ、生活が安定するようになると、生産者には「誰にも負けない質の良いものをつくる」ことへの誇りが生まれた。そして、さらなる付加価値を目指す。
循環は明らかに変わったのだ。
少しずつ、一歩ずつ、こうして変わっていく。変えていくことができるのだ。

来るべき新しい年に私たちがするべきことは何か。
想像してみようではないか、生活者の意識が地球の未来を変えることを。