第36回 「旬」を考える

夏野菜がおいしい。

ナス、トマト、キュウリ、ピーマン、トウモロコシ、オクラ、モロヘイヤ、ズッキーニ、ゴーヤ、枝豆……まだまだある。

はたと考える。

ナス、トマト、キュウリ、ピーマン、これらの野菜は年中手に入る。

「夏野菜」とくくるよりは、通年野菜といった感じではないか。

現代はいろいろな野菜が季節を問わず食べられる。

日本は北は北海道から南は沖縄まで国土が長いので、「寒い」「暖かい」の時期がずれる。

だから、収穫時期を少しずつずらすことができるし、ハウス栽培、品種改良、長期貯蔵、そして輸入と、一年中市場に届ける方法をさまざま生み出してきた。

では、旬とは何か。

大自然のままに任せれば、夏が旬だから「夏野菜」のはずである。

春も秋も冬も同様だ。

「師走筍寒茄子(しわすたけのこかんなすび)」ということわざがある。

師走は12月、「寒」は小寒から節分までの一年で最も寒い時期を指す。そんな時期にナスは手に入らないし、タケノコの旬は春だから師走の頃に手に入るわけもない。望んでもかなわないことを言ったことわざだが、現代ではもはやピンとこないものになってしまった。

本来はそれぞれに生きるべき季節があり、最もエネルギーのみなぎっている時期があるはずだ。

例えば、旬のキュウリはハウス栽培のものに比べて約2倍のビタミンCを含むというではないか。

その一方で、ハウスで栽培されたキュウリは、加温や照明などに使うエネルギーは夏の露地栽培に比べておよそ5倍という。

旬の時期が最も栄養価が高くておいしくなる、そればかりではない。

春野菜にはデトックス効果のあるものが多く、夏が旬の野菜は体を冷やしてくれる働きがあり、冬が旬の野菜には体を温めてくれる働きがあるというように、それぞれの季節に私たちの体が求める栄養を蓄えてくれているのだ。

自然の摂理どおりに旬を迎えた野菜を食べることは、私たちの体にとっても理にかなっているのである。

日本人はそれぞれの旬の季節を待ちわびながら、四季の巡りを実感してきた。

そして、そうした気候風土の中で固有の文化や国民性が育まれ、体もつくられてきた。

旬を失うことで、私たちは失くしてはならないものまで手放してはいないだろうか。